赤池の部屋「世界一周・思い出し紀行」バックナンバー  中米前編

   中米編”前偏” 目次

 第18回「グァテマラ、常春の町へ」グァテマラシティ~アンティグア

 第19回「産業は観光にあらず?」アンティグア(グァテマラ)

 第20回「スペイン語学校、アタバル」アンティグア(グアテマラ)

 第21回「ホームステイと食事」アンティグア(グアテマラ)

 第22回「グァテマラコーヒー考」アンティグア(グアテマラ)

 第23回「世界一美しい湖①」パナハッチェル(グアテマラ)

 第24回「世界一美しい湖②」パナハッチェル(グアテマラ)

 第25回「世界一美しい湖③」サンペドロ(グアテマラ)

 第26回「怪しき闖入者」サンペドロ(グアテマラ)

 第27回「レポート提出奮闘記」アンティグア(グアテマラ)

 第28回「十字架の丘へ」アンティグア(グアテマラ)

 第29回「留学生活の終わり、旅の始まり」アンティグア(グアテマラ)

 第30回「ティカル遺跡へ」フローレス~サンタエレナ(グアテマラ)

 第31回「ティカル観察日記①」ティカル遺跡(グアテマラ)

 第32回「ティカル観察日記②」ティカル遺跡(グアテマラ)

 第33回「夜行バスの攻防」

 第34回「ププサを探して」サンサルバドル(エルサルバドル)

 第35回「通り過ぎる国々」(エルサルバドル・ホンジュラス)

 第36回「長旅コラム②」バックパッカーとインターネット

中米編の関係地図

第18回「グアテマラ、常春の町へ」グアテマラシティ~アンティグア(グアテマラ)」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

グアテマラで僕が滞在していたアンティグアという町の大きな特徴として、気候が「常春(とこはる)」であるということが挙げられます。つまり1年中季節が春なのです。四季のある日本はもちろんの事、南の島のように常夏ではなく、北国のようにずっと氷に閉ざされているわけでもない、常春の気候。これは、赤道にほど近く、しかも標高が高い地域においてよく見られます。赤道に近ければずっと夏の気候になるはずですが、標高が高くてその分気温が下がるため、1年を通して、夏マイナス5℃くらいの気温になるというわけです。もちろん、少しの気温変化はありますが、僕が滞在していたときもおおむね昼は27℃、夜は22℃ぐらいで推移していました。つまり、ものすごく過ごしやすい気候です。

 

 さてそんな常春の町アンティグアでスペイン語を勉強するために、若かりし赤池はフラッとやってきたわけですが、ここから一体どんなハプニングが起きるのでしょうか。「困惑と苦悩の中米編」のはじまりはじまり~。

アンティグアの市庁舎を警備する兵隊さん。肩から無造作にかけているのは、テニスラケットとかではなくて、どうやらマシンガンのようです。警備にこんな物騒なものが必要なくらい治安が不安定ということでしょうか。実際、治安の良いアンティグアでも時々銃撃事件が起きていたそうです。

メキシコシティからバスで一路南下して、この旅3カ国目、グアテマラ共和国に入国です。日本を出てからすでに18日が経過しています。当初の計画では、どこにも寄り道せずに1週間ほどで最初の目的地であるグアテマラに入っているはずだったのに、いったいどこで道草を食っていたのか。これでは先が思いやられますね(涙)。

 さて、グアテマラという国について、というか中央アメリカ(中米)地域全体に関して、日本ではほとんど報道されないこともあり、よく知らない方が多いかと思います。もちろん僕も行くまでほとんど何も知りませんでした。本を読んでも、どんな国々なのかあまりピンと来なかったというかなんと言うか…。

グアテマラ、エルサルバドル、ホンジュラス、ニカラグア、コスタリカの5カ国に入国したのですが、グアテマラのアンティグアという町で語学留学しているとき以外は、快適さとは無縁のハードな旅になりました。特にニカラグアの旅は、そのハードさにおいて僕の人生に強烈なインパクトを残しています。

 ここからはそんな中米5カ国(といってもエルサルバドルとホンジュラスは通過しただけですが…)の旅の模様をお伝えしたいと思います。僕が旅した2000年代初頭は90年代までと比べると政治的にも格段に安定してきていますが、それでも社会のひずみや貧富の格差、アメリカとの関係など、矛盾を感じる事が何度もありました。身近ではない国の肌感覚のようなものがうまくお伝えできるといいのですが。

第19回「産業は観光あらず?」アンティグア(グアテマラ)」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 のにレストランや土産物屋よりもスペイン語学校の方が数が多いという啞然とする現実があるのです。正式なライセンスを取得している学校だけでも、その数なんと50校以上。人口が3万5千人程度の小さな町に、それこそスペイン語学校がひしめき合っているのです。

 どうしてこんな事になったのでしょう。実は中南米の国々では、高級ホテルや一部の特殊なエリアを除いて英語がほとんど通じません。そのため、旅行者は片言であってもスペイン語が話せないと旅行が非常に困難になるのです。必然的にどうにかしてスペイン語を勉強する必要が出てきます。それは日本人も西洋人も事情は同じです(スペイン人以外)。そこで、旅行者にとって中南米への入り口の位置にあるグアテマラにスペイン語学校の需要がうまれてきたのです。ある人はほんのあいさつ程度だけ、またある人はみっちり何ヶ月も学んで、と色んな旅行者のニーズに応えられる点も、ここで旅行者が勉強していく理由かもしれません。

 

 僕もとりあえずこの町である程度スペイン語を話せるようになることを最初の旅の目的にしていたので、アンティグアに到着するとすぐに、日本にいる間に調べてあった「ATABAL(アタバル)」というスペイン語学校へと足を向けました。

500年前に置かれたであろう石畳のごつごつした道には、時間が止まったかのような風情が感じら、歩くだけでも気持ちが高揚してきます。植民地時代の建築は非常に美しく(実はスペイン人による侵略の歴史を今に伝えているだけなのですが)、気候は穏やかです。アンティグアは本当に素晴らしい町でした。そんなふうに町歩きを楽しんでいるうちに、目的のスペイン語学校の前にたどり着いていました・・・。(つづく)

アンティグアの町並。いわゆるコロニアル様式とよばれる建物が待ちを埋め尽くしています。所々に、地震で廃墟となった場所がそのまま残っています。グアテマラもとても地震の多い国なのです。

 グアテマラの古都、アンティグア。使い古された例えで恐縮ですが、日本における京都のような存在の歴史ある町です。古都というだけあって、実際に16世紀から18世紀頃までグアテマラの首都でした。数度の大地震によって町が壊滅的な被害を受けたために、首都が移転されてしまいますが…。現在、スペイン人が築いた古い町並みがユネスコの世界遺産に登録されていて、町歩きをするだけでも楽しいです。

 

 さてそんなグアテマラの古都アンティグアですが、世界遺産に登録されているわけですし観光業が主要産業かと思いきや、実はこの町の人たちはあることを職業にしている人が驚くほど多いちょっと特殊な町なのです。その職業というのが「スペイン語の語学教師」なのです。観光客が大勢訪れる町な

 

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第20回「スペイン語学校、アタバル」アンティグア(グアテマラ)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

呼ばれる中南米独特の中庭に面した廊下に机を並べて、外の空気を感じながらのレッスンでした。さすが、ラテンの国やなぁと妙に感心した記憶があります。

はじめは簡単な挨拶くらいしかできなかったのに、何週間かすると、先生とわりあい複雑な話題も話せるようになってきました。日記を読み返してみると、「日本の駅前の放置自転車について」「タイのオカマの社会的地位について」「女性の社会進出について」「ラオスとグアテマラの貧しさの質の違いについて」などという事をスペイン語で会話していたようです(今となってはとても無理なので、にわかには信じられないですが)。

 

そんなこんなで毎日規則正しく勉強をするという、海外放浪とはちょっと縁遠い生活がしばらくつづきました。そんなアンティグアでの日々について、次回からもう少し触れてみたいと思います。

ビューポイントでもある十字架の丘からアンティグア市街を望む。奥に見える山はアグア山、その美しい形から日本人旅行者の間ではグアテマラ富士とも呼ばれています。

 1年間大学を休学するとき、休学理由が必要でした。理由に「海外放浪」と正直に書いてしまうと休学届けが受理されない可能性があったので、「語学留学」を理由にしました。その際、語学学校の入学証明書のようなものを添付して提出しなければいけなかったので、アンティグアの語学学校の中で当時唯一日本人が経営していたアタバルという学校にお願いして、無理を言って入学証明書を日本まで送っていただきました。その日本人の経営者の方は片桐真さんとおっしゃいます。現地に到着してからも、ホームステイ先でご飯が出ない日曜日にカレーを生徒たちに作ってくださったり、理解しにくい文法を教えてくださったりと色々とお世話になりました。

 で、その片桐真さん、日本に帰って来てから知ったのですが、女優の片桐はいりさんの弟さんなのだそうです。片桐はいりさんが書いた本に『グアテマラの弟』という(そのままの)タイトルの旅行記があるのですが、もしグアテマラやアンティグアでの語学留学生活に興味を持たれたらぜひ読んでみてください。めちゃめちゃ面白い本です。僕は実際に自分が勉強していた語学学校(アタバル)が舞台になっている本ということで、他人事とは思えない内容でしたが、そうでなくてもグアテマラという未知の国がぐっと身近に感じられておすすめですよ。

そんなアタバルでの留学生活は、月曜日から金曜日まで、朝8時から12時までの4時間のマンツーマン授業です。マンツーマンなので居眠りしたりぼんやりしたりすることはもちろんできません。しかも、けっこう宿題が出るので、授業が終わった午後も日によっては、ずっと勉強していました。授業とあわせて毎日平均7時間ぐらいは勉強していたと思います。また、自習をしていない時間でも、市場で買い物をしたり、公園で地元の子供たちと会話したりするのもいい実習になりました。

さて実際の授業に関してですが、学校とは言っても、教室のようなものはなく、パテオと呼ばれる中南米独特の中庭に面した廊下に机を並べて、外の空気を感じながらのレッスンでした。さすが、ラテンの国やなぁと妙に感心した記憶があります。

さて実際の授業に関してですが、学校とは言っても、教室のようなものはなく、パテオと

『グアテマラの弟』(幻冬舎文庫)

著者:片桐はいり

 

個性派俳優として知られる片桐はいりが、グアテマラのアンティグアでスペイン語学校を経営する実の弟に会いに行く、ちょっと変わった趣向の旅行記です。グアテマラという国やグアテマラ人の事を知るための最良の案内書でもあります。

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第21回「ホームステイと食事」アンティグア(グアテマラ)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

父さんのフリオが「デッサジューノォーー」と言いながら起こしに来てくれました。

●Desayuno(デサジューノ)…朝ごはん

 

朝ごはんはパンとトルティーヤ(トウモロコシの粉のクレープみたいなもの)と「フリホーレス」と呼ばれる赤や黒のインゲン豆を塩で煮込んだ甘くない煮豆料理が必ずと言っていいほど登場しました。フリホーレスはグアテマラ人のおふくろの味みたいな料理で、貴重な蛋白源でもあります。トルティーヤは、焼き立てだったのでボサボサした感じがなく、トウモロコシの味わいが美味しくていつも食べ過ぎていました。気候も穏やかなうえに、あまり運動もしなかったため、グアテマラにいる1ヶ月ほどの間に結構ぽっちゃりしてきたように思います。ちなみに「トルティーヤ&フリホーレス」の組み合わせが、日本における「ご飯&味噌汁」に相当するんじゃないかと個人的には考えています。

朝の4時間の授業で集中力の限界に達して、ステイ先に帰って来た昼の12時過ぎ、空腹もピークに達していて、お父さんのフリオが「アルムエーーーールソォォ」と言いながら呼びに来てくれると同時に、サササッと食堂に降りて行きます。

お昼はだいたい、パンと米か、パンとパスタでした。いずれにしても炭水化物+炭水化物という黄金の組み合わせに変わりはありませんでした。ビーフシチューなどの肉料理が出る事もあり、昼食は朝昼晩の中で一番ボリュームがあったように思います。

●Alumerzo(アルムエルソ)…昼ごはん

 

午後を自習したり、図書館に行ったり、市内散策したりしながら過ごして、7時ぐらいから夕食でした。ある日の日記には、「夕食は豆(フリホーレス)、お米、卵(ゆで卵の事か)、はんぺんのトマトソース包み、パンたくさん」とあります。「はんぺんのトマトソース包み」という料理がいかなる料理だったのか、残念ながら覚えていないのですが、結構バラエティー豊かなメニューが食卓に並んでいたのは確かです。そして3食ともに多種多様なパンがついてきたのが独特でした。面白いのは食パンのような甘くないパン以外に、菓子パン類も必ずかごに入って出されていた事です。ビーフシチューとメロンパンって日本ではまず一緒に食べませんよねぇ・・・。ちなみに晩ごはんはあんまりお父さんは呼びに来なかったというか、だいたい夜7時になったら自分たちから食堂に降りて行っていました。

 

Cena(セナ)…夕食

ホームステイ先の食事を収めた一枚。これ一枚しか撮影していなかったのですが、この時のメニューはパンとパスタとお肉料理だったので、肝心のトルティーヤもフリホーレスも写っていませんでした(涙)。

 ホームステイを受け入れてくれたのは、フリオとマルガリータの夫婦というグアテマラの中流階級のお宅でした。1泊3食付で1週間325ケツァールでした。ケツァールというのはグアテマラの通貨で、1ドル=8Q(ケツァール)ぐらいの交換レートでしたので、1週間の滞在費が約40ドル(当時のレートで約5,200円)ということになります。これは本当にありがたかったです。この町に多くの旅行者が語学の勉強をしにやってくるのも納得です。治安と町の雰囲気が良くて、物価も安く長期滞在できる町で語学留学ができるなんて、なかなかそんな条件のいい国や町は見つからないものですから。

先ほども書きましたが、ホームステイは3食付でした。離れの2階に何部屋かベッドルームがあって、そこで寝起きをしていましたが、毎朝の7時ごろにお

第22回「グアテマラコーヒー考」アンティグア(グアテマラ)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

さて、その産地であるグアテマラは、標高の高い土地の面積が広く、品質の高いコーヒーの栽培に適した国だと言えます。(余談ですが、標高の低い場所で作られるコーヒー豆はロブスター種といって、主にインスタントコーヒー用の品質の低い豆なのです。)それでは、グアテマラではさぞかし美味しいコーヒーが飲めるのではないかと思いきや、これがどこの喫茶店に行ってもインスタントの「ネスカフェ」しか出てこないのです・・・。よく言われることですが、外貨の収入源になる上質のコーヒー豆は輸出に回され、国民はインスタントコーヒーを飲んでいるのが現実なのです。でも「せっかくグアテマラくんだりまで来たのだから、グアテマラコーヒーを飲みたい!」と、探し回って高級そうなカフェでようやく見つけました。当地の物価としてはかなり高価なコーヒーは、魔法のように美味で、その美味しさのためにかえって複雑な心境になったのを思い出します。

 

 アンティグアは比較的治安が良かったのですが、他のグアテマラの町は総じて治安が悪く、どちらかといえば殺伐とした印象を受けました。先進国がコーヒー豆(や他の様々な作物)を買い叩いてきた現実が、そんなグアテマラの治安の悪さや殺伐とした雰囲気の一端を担っているとしたら、こんなに悲しいことはありません。フェアトレードのコーヒーを飲むことで、個人レベルではあってもグアテマラという国と繋がっている実感を持てればいいなぁと思ったりします。

現地の人はあまり口にすることがないグアテマラのドリップコーヒー。その辺りの歪んだ構造はカカオの生産国でも同じことが言えます。格差が是正されてグアテマラの人達も、もっと日常的に自分たちの国の生産物を口にできるようになればいいのですが。

伏見のグリーンアイズを訪ねて、コーヒー豆のお話しを聞かせてもらう機会がありました。美味しいコーヒーの焙煎に並々ならぬこだわりを持っておられる店主の森口さんが、いろんな話しの中でも特に目を輝かせて話されたのが、グアテマラのコーヒー豆についての事でした。実際のグアテマラ産の生豆は、大粒できれいな緑色をしていました。

おそらくグアテマラコーヒーの一般的なイメージというのは「酸味が強い」というものではないでしょうか。確かに酸味が特徴ではあるのですが、グリーンアイズのグアテマラは実際に飲むと、酸味以外の雑味を感じないので、すっきりしていて飲みやすいです。本物のコーヒーの酸味はこういう味なのだと感じることができますよ。

第23回「世界一美しい湖①」パナハッチェル(グアテマラ)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 外国をフラフラしていると、「世界一美しい○○」というフレーズを頻繁に耳にします。例えをひとつ挙げると「世界一美しい街」というものです。①メキシコのグアナファトと②チェコのチェスキークルムロフという2つの街が「世界で一番美しい街」と呼ばれているのを聞いたことがあります。「世界一高い山」や「世界一広い大陸」というのなら答えは一つしかありませんが、「世界一美しい街」となると基準があいまいで、はっきり言ってどちらがより美しいと感じるかは完全な好みの問題になってきそうです。もちろん他にも美しい街はいくらでもあるはずです。

 

 さて、そこでグアテマラです。グアテマラには「世界で一番美しい湖」と呼ばれているアティトゥラン湖があります。美しい湖と言えば、あまりにも神秘的なボリビアのチチカカ湖も美しいですし、滋賀県出身の僕としては琵琶湖だって負けていないと思うのですが(笑)、グアテマラ人の皆さんが言うには、なんと言ってもアティトゥラン湖が世界一美しいのだそうです。そんなに美しいなら見に行ってみようじゃないか、ということで、ホームステイしているアンティグアからバスに数時間揺られて、湖のほとりにあるパナハッチェルという町にやってきました。ここから湖の対岸にあるいくつかの面白そうな街までは、バスではなく船で移動するようなので、船着き場を目指しました。アティトゥラン湖は本当に美しい湖だったのか、そして湖のほとりで赤池が体験したささやかな事件とは…。次回に続きます。(つづく)

①グアナファト…スペインによる植民地支配の時代における、北半球最大の銀の採掘地として未曾有の繁栄をとげたと言われている銀山の街です。カラフルな壁の街がメキシコの強烈な太陽に照らされて確かに美しいです。

②チェスキークルムロフ…中欧チェコの小さな、そしてメルヘンのような街です。街を流れるモルダウ(ヴルダヴァ)川と建築物との調和のとれた美しさは素晴らしいですね。ちなみにどちらも赤池は行ったことがありません(涙)。写真で見るだけです。いつかは行きたい…。

第24回「世界一美しい湖②」パナハッチェル(グアテマラ)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「火がおこっている」つまり火山がたくさんあるというおじさんの言葉が納得できました。大きさは琵琶湖の5分の1程度ですが、水深は琵琶湖の15倍、なんと1500mもあるのです。これだけ深いと、湖の水の色も非常に深い色になるはずですが、僕が行った時間帯は太陽があまりにも眩しくて、それほど深みを感じられませんでした。

ウィキペディアにも「世界一美しい湖のひとつとされる」と書かれているこの湖の美しさを僕は体験できないのでしょうか?それともおじさんの言うように、湖の美しさは過去のものなのでしょうか?いやいや、その真価を知るのは、次の日の朝のことになります。ちょっと脱線したので書き切れませんでした。次回に続きます。

幻の鳥「ケツァール」。緑と赤の強烈なコントラストが非常に美しいです。どなたか実物を見た方はおられるのでしょうか。見てみたかったなぁと今でも思います。

パナハッチェルを出港した直後。船上から陸に向けての一枚。世界一美しい湖、アティトゥラン湖はこうしてみると普通の湖に見えますが・・・。

湖の拠点となっているパナハッチェルという町から、ランチャーと呼ばれる船に乗って対岸の町サンチアゴ・アティトゥランに向います。船の料金は10Qでした。Qとはグアテマラの通貨「ケツァール」の略で当時のレートで1米ドル=約8Qでした。ちなみにケツァールとは、グアテマラをはじめとする中米一帯の山岳地方で見られる鳥で、その姿を見た人は幸運になれるという、お約束のような言い伝えがあります。それくらい出会うのが難しいという鳥で、どちらかというと、エコツーリズムという、自然の中を巡る観光ツアーが盛んなコスタリカの方がケツァールに遭遇できる確率は高いそうですが、グアテマラの国鳥として非常に愛されている鳥なのです。鳥が愛されすぎて一国の通貨の名前になってしまったという、あまり例の無いケースではないでしょうか。

ちなみに…余談ばかりで恐縮ですが、このケツァールは「世界一美しい鳥」とも言われています。鮮やかなエメラルド色の身体に胸の部分だけに美しい真紅の羽を持っています。またしても世界一の話になってしまいましたね(笑)。話を湖の上に戻しましょう。

その船上で麦わら帽子をかぶったおじさんにアティトゥラン湖について色々と話を聞くことができました。果たしてあちこちで言われている「世界一美しい湖」とはどういうことなのか、パッと見た感じでは普通の湖に見えなくもないので、その辺のことを聞いてみたかったのです。

そのおじさんは開口一番「昔はこの湖も美しかった」という実も蓋もないようなことを言い出しました。「昔はこの湖も美しかった。今は昔ほどではないけど、今でも火がおこっている山がたくさん湖を取り囲んどるんだよ」と。

後に調べてみると非常に水深の深いカルデラ湖であることが分かりました。

第25回「世界一美しい湖③」サンペドロ(グアテマラ)

 

 

 

 

 

 

 

 

目の届かない湖の奥の村で土着の信仰の火を絶やさないように守ってきたようなのです。

さて、ここのところ「世界一美しい湖」についてしつこく書き連ねていますが、その話のオチを書いておきましょう。その日は対岸の町サンペドロで宿泊し、次の日の早朝に宿を出て湖のほとりまで歩いていくことにしました。標高が高い(1500mほど)ので朝は長袖を着ても寒く感じる日もあります。そんなひんやりした空気の中、木々の間からアティトゥラン湖を眺めると、ちょうど朝日が昇り始めた時間で、湖を黄金色の光の筋が一直線に僕の足元まで伸びています。湖を取り囲む山は3000mを超え、ダイナミックな起伏のシルエットを作り出しています。8万年以上前の火山の噴火でできたと言われるこの湖で太古から繰り返されてきている同じ光景を見てるんやなぁ、とちょっと感慨に浸りました。世界一かどうかはひとまず置いておいて、掛け値なしに美しい光景に出合った瞬間でした。

朝日が映り込んで一直線に湖の上を走る様子です。湖の上には早朝の漁に出ているのか、小舟が横切って行ったので、朝日の光の筋と重なったタイミングでシャッターを切りました。写真からでも素敵な雰囲気の片鱗は伝わるでしょうか…?

 湖の対岸の村に上陸すると、宗教施設が色々と目に付きました。もちろんカトリックの国なので教会がデンと村の真ん中にあるのですが、少しはずれに行くと不思議な場所にぶつかりました。「マシモン」と呼ばれる土着の神様、キリスト教からすると異教の神様を信仰する宗教の建物があったのです。小さな部屋に男たちが寿司詰めに入って、お香だかなんだかよく分からない煙が充満している真ん中に、不思議な神様の像があって、その神様の口にしきりにタバコをくわえさせて火をつける、という変わったパフォーマンスが繰り広げられていました。詳しい信仰の内容はよく分かりませんでしたが、16世紀からどんどん進められてきたカトリックの布教活動は、有無を言わさない改宗の押し付けもあり(もちろんラスカサスのように人道的な布教活動を行った人もいます)、そのような宗教の押し付けに対して反発の意味もこめて、人々はあまり

第26回「怪しき闖入者」サンペドロ(グアテマラ)

 

 

 

 

 

 

 

 

という内容のプレートでした。ステーキには塩とコショウはかかっているものの、基本的にはそれ以外の物には全く味が付いていません。テーブルにある塩とチリソースを適当にかけて食べるようです。余談ですが、こうして考えると、素材の味を活かしつつ、それをしっかり出汁や発酵食品の味わいと調和させている和食の味付けに今更ながら驚かされます。

では、このステーキが美味しくなかったかというと、噛みしめるとそれなりに美味しかったはずです。ただ、怖ろしく肉が硬くてナイフの刃が全然通りません。味云々よりもその硬さが印象に残り過ぎて、そして後述する出来事のインパクトが強烈過ぎて味の記憶があまり残っていないようです。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

この後の展開はどうなるんやろ、と想像していくと怖ろしくなってきたので、慌てて皿に残っているものを全て平らげてお金を払って食堂を飛び出しました。そんなわけで、あまり味の記憶というものがないのです・・・(涙)。

 

※その割りに、その獣の写真をカメラに収めています。冷静にシャッターを切っている辺りが若さというかなんというか(笑)。

アティトゥラン湖のほとりの食堂で食べたガーリックステーキです。お肉を切る前に皿をこわしてしまいそうになるくらい固くて、ナイフとフォークを使ってもなかなか切れませんでした。味付けは塩コショウ。極めてシンプル。

アティトゥラン湖のほとりの村サンペドロで夕食を食べた時の話です。蒸し暑い気候なので夜でも涼しい風を入れるために、その辺りの建物はだいたい窓は開け放してあるのですが、僕が入ったいかにも大衆食堂然とした食堂も例外ではなく、窓は開け放たれていました。

 バスに揺られたり船に乗ったり、結構一日活動していたからか、妙にお腹が空いていたので、普段はあまり注文しないステーキを頼んでみました。しばらく待って出てきたのは、

 

①ニンニクがたっぷりのった薄めのステーキが数枚、②パラパラの付け合わせの米、③主食のパン、④プチトマトのスライス、⑤巨大キュウリのスライス

食事中に現れた闖入者。黒い動物のキラリと光る眼が尋常じゃないくらい怖かったです(笑)。窓枠に前足をかけてきたので、そのまま部屋に乱入してこないかビクビクしていました。

 

その、インパクトの強烈過ぎる出来事とは・・・。僕がその硬さに冷や汗を流しながら食べていると、開け放たれた窓から何やら視線を感じます。近所の子どもでものぞいてるのかな、と思って窓を見ると、2つのキラリと光るつぶらな瞳が・・・。どう見ても人間の子どもの目ではありません。というか、どう見ても巨大で真っ黒な獣と目が合っています。おそらく犬のはずです。というか犬であってほしい…。犬以外だったら一体あれは何なんでしょう?そんなこと、想像したくもないのですが。

その犬(と思しき獣)は窓のワクに前足をかけてこちらを見ています。そのまま食堂の中に飛び込んで来そうなくらいです。いや、空腹がピークなら飛び込んできたはずです。

第27回「レポート提出奮闘記」アンティグア(グアテマラ)

 

 

 

 

 

 

 

 

と妙に感心した記憶があります。やっぱり図書館の静けさの中では、子供たちは騒ぎたくなるんですね。

 

 で、レポート用の資料を探してみたのですが、簡単に理解できそうな専門書などあるわけがなく、仕方なく最近の新聞を何紙か持ってきて読んでみることにしました。すると、

「グアテマラ東部チキムラ県が飢饉にあえぐ」

という見出しが目に飛び込んできました。正確には辞書を引き引き、その見出しを解読したのですが…。

 

 裕福な国ではないというのはあちこち行ってみて、なんとなく感じていましたが、新聞の1面にリアルタイムで飢饉が起きているというニュースが掲載されているというのは、さすがにショックでした。しかもそれは特別なニュースではなく、毎日のようにそれに類する話や発砲事件や、その他の悲惨な出来事が更新されているようなのです。90年代と比べると格段に治安も良くなったと言われるグアテマラ。それでも町にはかつての銃撃戦の弾痕が普通に残っていますし、飢饉さえ日常的に起こっている。その一方で換金作物としてコーヒー豆が外国人のためにせっせと栽培されて、輸出されている。この現代社会の縮図みたいなグアテマラの社会構造を踏まえて、色々と考えられることがあるんだろうなぁと(今となっては)思います。当時は、僕が滞在していた2002年に起きていたチキムラ県の飢饉の様子を新聞記事から翻訳し、要約して教授にレポートとして送りました。最終的に単位はもらえたので、とりあえず及第点はもらえたのかな、と勝手に思っています。

アンティグアの街角です。こうして見てみると路上駐車が多いですねぇ。時が止まったようなコロニアル建築の世界遺産の町だけに、この縦列駐車はちょっと寂しいですね。

 この旅行記の最初の方で書いたのですが、僕は大学を1年間休学して日本を離れました。その大学では2年間履修してから単位をもらういわゆる「ゼミ」というものに在籍していたのですが、そのゼミの1年目が終わったところで旅行に出てしまったので、ゼミの担当の鈴木健夫教授(通称すずけん教授)から、「せっかくグアテマラに行くのなら、グアテマラの実情を調べてメールでレポートを提出しなさい」という過酷?な宿題が課せられていました。とはいえ、実情を実地調査といっても語学力もネットワークもノウハウも何もないので、アンティグアの図書館に行って何かしら調べてみる事にしました。図書館内はさすがに旅行者の姿もほとんどなくて、現地の子供たちがちらほらいるだけです。そして壁には“Silencio por favor”(お静かに願います)の文字が…。こんな地球の裏側でも図書館に張られる言葉は同じなんやなぁ、

第28回「十字架の丘へ」アンティグア(グアテマラ)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

そして、間違いなく今の歳なら、そんな危険な事は絶対しないだろうなぁとも思います。

たまたまその場所にいた知り合いの留学生(彼も一人で登ってきていました)が写真を撮ってくれました。その時撮ってもらったここに載せているスナップショットは大切な思い出です。そう考えると、一人で登るのは危険だと言われてる所でも登ってくる人は必ずいるもんやなぁと(自分のことは棚にあげて)おかしな気持ちになります。そもそも、この中米という場所からして、「絶対に危険だ」と言われていた時代にコロンブスが無茶な航海の末に「発見」した場所なわけですから。

 

現在はもっと治安が良くなっているはずですから、アンティグアにお越しの際はぜひ十字架の丘にお立ち寄りください。コロニアル建築群の上を飛ぶ鳥になったような気分が味わえる、素晴らしい展望が非常に魅力的な場所です。もちろん、中南米で単独行動を取ることはどんな場所でも危険を伴いますので、可能な限り団体での行動をおすすめ致します。

かなりの高低差があるので、鳥になった気分が味わえる十字架の丘。ちなみにバックナンバーの第20回で使っている写真は、もう少し引いて撮った十字架の丘です。巨大な十字架がしっかり写っています。

留学していたアンティグアの町で一番のビューポイントといえばなんと言っても「十字架の丘」でした。町の北側(僕がホームスティしていたのも町の北の端でした)から林の中の階段を登っていくと、視界が一気にばっと開けるところがあって、そこに巨大な十字架のモニュメントが置かれている事から、十字架の丘と呼ばれていました。アンティグアの町が見下ろせるだけでなく、その向こうの「グアテマラ富士」と呼ばれる見事な山が視界に同時に入ってくる迫力も手伝って、十字架の丘は観光客に大人気のスポットでした。

 しかし、僕が滞在していた当時、その十字架の丘は、「絶対に一人で訪れてはいけない場所」として注意勧告が出されていました。その丘へ行く途中の林の中に強盗が潜んでいて、観光客が何人も被害にあっていたからです。強盗は集団ではないので、団体でその丘を訪れる分には危険もないのですが、ひとりでは決して行かないように、と僕もいろんな所で何度も注意を受けていました。

 ある日曜日、授業がないので朝から何をしようかなーと考えていて、ふと思い立ってその十字架の丘に一人で登り始めました。強盗に遭わないように、階段を駆け抜けたら大丈夫じゃないかな、と思って林の中を全力疾走で走りぬけたら、意外と大丈夫でした。

そんなことで危機管理は大丈夫なのかなぁと今なら思います(汗)。

第29回「留学生活の終わり、旅の始まり」アンティグア(グアテマラ

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

もちろん毎日そんな勉強漬けという訳はなく、時にはサボって午後から市場とか公園に遊びに行っていましたが、行く先々で子どもたちや暇そうなおっちゃんたちを相手に会話の練習をしていたので、結局スペイン語漬けだったのは否めませんが…。

そして週末の授業がない日にちょこちょっと近隣の町などに出かけていたのです。しかし、規則正しい生活を続けているうちに、だんだん「バックパッカーに戻って旅行がしたい」という気持ちがもたげてきました。もともと、この語学留学自体が長期旅行に出るためのカモフラージュの側面を持っていたので、余計に旅行を再開したいという気持ちが強くなっていきます。

 そして5月7日、慣れ親しんだアンティグアでの留学生活に終止符を打ち、「短期留学生」から「貧乏旅行者」へと身分を変えて(苦笑)、旅の日々へと戻っていきました。

 

まずはグアテマラ最大の観光地、マヤ文明の大遺跡「ティカル」を目指す事にしました。中米編はここからとんでもない事が次々と起きてしまうのです(涙)。苦難の連続に乞うご期待?

(短期)留学生活を終えて旅行を再開した時、最初に泊まった安ホテルの廊下の写真。外の太陽があまりにも眩しくて、室内がブラックアウト状態に。ぽつんと置かれた木の椅子が印象的でした。

語学学校に通っていたのは4週間です。その間の生活は非常に規則正しいものでした。留学していた時の一日の流れを簡単に書き出してみると・・・

 

午前7時  起床→朝ごはんを食べる

午前8時~12時 語学学校「アタバル」で授業

12時半   ホームステイ先に戻ってお昼ごはん

午後2時    洗濯、インターネットなど

午後4時    外出。図書館などで予習、復習

午後6時  帰って単語テスト

午後7時  夕食

午後9時  ホームステイ先の人達や留学生と歓談

午後10時  就寝

ほぼ4週にわたって月~金はこのようなまことに規則正しい生活を続けました。実に一日7時間近くスペイン語の勉強をしていたことになります。

第30回「ティカル遺跡へ」フローレス~サンタエレナ(グアテマラ)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 さてグアテマラ北東部の密林に眠るティカル遺跡とはいったいどんな場所なのでしょうか。4平方kmに及ぶ密林に大小3000を越えると言われる膨大な数の遺跡群があり、全盛期の8世紀(インカ帝国なんかよりずっとずっと古いです)にはティカルだけで6万人が暮らす大都市でした。今の日本で6万人というと大した規模とは感じないかもしれませんが、当時の世界では、ヨーロッパ社会でも10万人を超える都市というのはほとんどなかったことを考えると、その大きさがなんとなく感じてもらえるかもしれません。

 このティカル遺跡、ジョージルーカス監督の映画「スターウォーズ」(1977年公開の第1作目)の物語後半に、反乱軍の秘密基地がある星の光景として堂々と登場します。映画を見たとき「あ、ティカルや」と思わず突っ込んでしまって、遥か彼方にある宇宙人の住む星だと想像する事ができなかった、と言う悲しいエピソードもあります。

「遥か彼方の星じゃなくて、思いっきりグアテマラやん!」

 

 そんなティカル遺跡を目指して、首都グアテマラ・シティーからフローレスという湖畔の町まで夜行バスで10時間。いよいよ密林の巨大遺跡群へと突入です。(以下次週につづく)

現地でもらえるティカルの遺跡マップ。迷路のように道がいくつも分かれている上に、周囲はジャングルなので、あちこちにごろごろしている遺跡だけが目印です。目印であり、目的地なんですけどね…。

 中米には、メキシコの「チェチェン・イツァー」やホンジュラスの「コパン」、グアテマラの「キリグア」などマヤ文明の壮麗な遺跡群があちこちにあります。はっきり言って中米観光のかなりの部分は。これらのマヤ文明の遺跡を見る事にあると言っても過言ではないはず。そんなマヤ文明の中でも最大規模の遺跡「ティカル」にだけは、どうしても行ってみたいと考えていました。

 この旅行記を書き始めてこのかた、観光らしい観光をまるでしていないみたいに思われている節もあるかもしれませんので、ここらでひとつ「真面目に観光もしていたんですよ」というところを書いてみたいと思います。

第31回「ティカル観察日記①」ティカル遺跡(グアテマラ) 中米観光の目玉は、域内各地に点在するマヤの遺跡群と、コスタリカを中心とした非常に多様な動植物との出会い(エコツーリズム)の2つに大別されますが、その中でも、マヤ文明最大の遺跡の一つ、ティカル遺跡の見学は、当時のほとんど予備知識のなかったヤング赤池の心にも相当ずっしり来たようで、結構真面目な観察記を日記に書いていました。せっかくなので、当時の日記を(ほぼ)そのまま載せてみます。文章表現が若いですね(苦笑)。 グループGという集落のような遺跡群を見た後、現地のツーリストに教えられて、はじめてこの目でキツツキを見る(つつく音は今までも聞いたことがあったが、その姿を見たのはこれが初めてと言う事になる)。すごい音のするつつき方だ。本当に鳥なのだろうかと思わせる程。このキツツキ、頭が赤いので森の中でもわりあいすぐに見つけることができた。

森からのぞく神殿の後ろあたま。ジャングルに隠れていた神殿や遺跡が突然目の前に現れる「不意打ち感」がティカル遺跡の最大の特徴です。

(当時の日記からの抜粋) 2002年5月8日(水) 朝10:00、太陽の光を浴びて白く輝く砂の道がジャングルの中まで続いている。予想していたよりはジャングルの中は過ごしやすく、ひょいひょい歩いてすぐ、遺跡の入り口の最初の三叉路にくる。迷わずTemploⅥ(6号神殿)のある左の道を選ぶ。神殿まで1キロぐらいありそうだ。ここまでは遺跡らしい建造物はまだなく、ただ森の中に迷い込んだ、という気分だ。しかし、にわかにでかい石のかたまりみたいに遺跡が見えた。なんとも洗練されていない建物だが、でかいものはでかい。12mあるそうだ。しかし1号神殿が高さ50m、6号神殿に至っては高さ70mもあるそうなので、この段階ではいったいどんなスケールなのか、想像することができない。
で、うろうろと歩いたりしていると、バカでかい神殿の頭が森の隙間から見えた。未知との遭遇である。(理不尽なくらいの大きさに現実感覚がなくなるというか、なんというか)突然のインパクトでいえば、この1号神殿との後ろ頭との出会いが一番衝撃的だった。 1号神殿と2号神殿に挟まれた広場で小休止し、その後2号神殿に登る。階段がしっかりしているので登りやすい。 ※この後ティカル遺跡最大の目玉、高さ70mの6号神殿へと向かうのですが、この続きはまた来週。

神殿の前にはけっこう大きな広場がありました。恐らくこの遺跡が現役の頃は、こうした人が集まれる場所が無数にあったんだろうなぁと思われます。

第32回「ティカル観察日記②」ティカル遺跡(グアテマラ) きっとティカル遺跡の観光を終えてホテルに帰って来てから相当暇だったんだと思います。日記に(僕にしてはきれいな字で)びっしりティカルの観察記を書いてあったので。色んな遺跡を見ましたが、アンコールワットやマチュピチュのような超メジャーな遺跡をひとまず置いておくと、このティカル遺跡が僕の中では一番のお気に入りの遺跡です。アクセスはかなり不便ですが(涙)、行く価値は十分にあると感じました。 (おまけ)ティカル遺跡へのアクセス・・・「アクセスの悪い遺跡」として名高い(?)ティカル。日本からは飛行機で、アメリカで乗り換え、グアテマラシティでもう一回乗り換え、最寄りのフローレス国際空港で下りれば、その町からはバスに乗って1時間弱で遺跡に着くと思います。 (引き続き、当時の日記からの抜粋です) 1号神殿の周辺でなんやかんやしている間、南の方からたえまなく、ものすごいケダモノの声を聞く。5号神殿の方からだ。殺気と呼べそうなものを感じて引き返した。他の神殿には登れなかったので、高さ33mのピラミッドに登る。裏側の崖から登ったのだが、よく調べるとピラミッドの正面には立派な階段が新しく備わっていた。(ジャングルなので、正面の様子もよくわからないのである) そのピラミッドからの眺めはなかなかだった。横を向いてとんがった3号神殿は、真下から眺めた時のような不愛想な感じではなく、なんともご立派な様子だった。 5号神殿を見に行こうとした時、その神殿に近づくにつれて先述したケダモノの声が激しさを増していた。一瞬、雰囲気を出すために(テーマパークなどでよくやるように)テープでも流しているのではという悪い予感がしたが、木の上にいる声の 主の真下でその、怖ろしくもバカでかい咆哮を聞いた時、それが猿の大群の仕業だと分かってほっとした。 そして目玉の6号神殿にたどり着き、下の売店で飲み物を買って、木製の階段で70mの高低差を一気に登ると視界が一気に広がった。ジャングルと神殿群の頭。木々の緑にはこんなにも様々な種類の色合いがあるのか、とびっくりするほど、多様な色の木々が広がっている。神殿の上から1周見渡す限りジャングルしか見えず、2時間、その上でぼーっと過ごした。高い所から見下ろすことが快感なのかな?辺りをただ眺めているだけだったのに、すごくわくわくしっぱなしで、神聖な建物の上に居続けたのだった。

ティカル遺跡を神殿の頂上から眺める。うっそうとしたジャングルの木々の間から、超現実的な古代遺跡がにょきにょきと顔を出す様子はまさに壮観。SF映画にそのまま使われたのも納得のいく光景でした。

まるで動物園のように、あちこちで野生動物が好き放題暮らしています。これは野良クジャクの群れ。キツツキや猿の大群などが次々現れて、サファリパークも真っ青?です。

第33回「夜行バスの攻防」サンタエレナ~グアテマラシティー(グアテマラ) と、なぜか僕の座席の足元に巨大なプラスチック製のヤカンが置かれているではありませんか。これではバックパックも置けないし足も延ばせないので、無理やりそのヤカンを横に押さえつけて座りました。今度は前の席のおっちゃんが座席のリクライニングをググッと僕の方に倒してきて、ただでさえスペースのない僕の座席がさらに狭くなって、足を入れる場所がなくなりました。そうは言っても、夜行バスなのでとりあえず眠れさえすればいいわけだから、と、なんとか寝る姿勢を取るよう頑張ってみます。 僕の席の横と後ろ(最後尾)は大家族らしく8人の席に大人が8人と子どもが4人乗っています。すでにこの時点で子供4人分が定員オーバーですよね。僕の隣りには小学生くらいの男の子とその母親が乗っています。この小学生が僕のジーンズの上に靴でガンガン踏みつけてくるので、横ではそのケアもしなくてはいけない…。さらに後ろの席のおっちゃんと子供。この子供が僕の座席の頭を置く辺りをしっかりと握りしめているものですから、頭を座席に置くと子供の手が枕になってしまう。頭でぐりぐりやっても、全然どけてくれません。そうこうしているうちに横の子どもはぐぐっとテリトリーをはみ出してきて僕の足を枕にして寝てしまいます。 夜には冷え込むグアテマラ。しかし誰かが窓が開けているので、冷たい風がビュービュー入ってきてとても寒い。耳を澄ますと開いた窓から鳥と犬の鳴き声も遠くでかすかにしています。しかし、バスの中は運転手さんが眠くならないようにか、一晩中大音量でグアテマラ・ポップスが鳴りやみませんでした。結局、少しうとうとしてはすぐに前後左右の誰か(もしくは大音量の音楽)に起こされる、という状況が朝まで延々続き、寝ぼけまなこのままバスを降りることになりました。ようするに、僕は夜行バスの攻防に負けたのです(涙)。 このあとすぐに、首都でバスを乗り換えてエルサルバドルに向かうことになります。つまりこの「夜行バスでの攻防」が、出国する前のグアテマラ最後の思い出ということになりました。

ティカル観光を終え、近隣の町サンタエレナで首都までもどるバスを待つことに。バスは夜9時半発。まだまだ時間があります。

昼間の炎天下、熱帯の気候区分に入るこの町は気温がどんどん上昇していきます。あまりに暑いので、湖のほとりの桟橋でビールを飲むことにしました。旅に持って行っていた目覚まし時計に温度計が付いているので、取り出して現在の気温を測ってみると・・・あれ、46.5℃?壊れてるかな…?

暑すぎてくらくらしましたが、「人生一番のビールだった」と日記に書いているくらいだから、暑さよりもビールの美味しさが印象的だったと云う事でしょう(笑)。

 

 さて、夕陽を見るまでその桟橋周辺でぼーっとして、日が暮れてようやくバスに乗り込みました。日中ずいぶん暑さにやられて消耗したので、ようやくゆっくりできるかと思ったのですが…。ローカルバスは甘くなかった。ここからの夜行バスでの体験こそが、リアルなグアテマラだと言えなくもないです…。

 

《ローカル夜行バスの攻防》

 一番後ろから2列目に僕の指定の座席があったのですが、まず通路に荷物が山積みで後ろまでたどり着けないのです。人波を(文字通り)こじ開けて席にたどり着く

グアテマラでビールといえば、どこに行ってもこのGALLO(ガジョ)ビールでした。メキシコのように何種類もなかったので、グアテマラではひたすらこのガジョビールを飲むことになります。ちなみにガジョとは雄鶏の事で、黒い鶏がトレードマーク。

第34回「ププサを探して」サンサルバドル(エルサルバドル)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

その意味不明で摩訶不思議な名前の響き・・・。気になる・・・。食べてみたい・・・。しばし逡巡した後、料理への好奇心が治安への恐怖心を超えてしまいました(苦笑)。

 

 財布はホテルに置いて、少額のお金だけを握りしめて日の暮れ始めた街に出ました。欧米諸国でも、夜の外出は少し緊張しますが、この時の街歩きは背中のひりつくような異様な緊張を伴いました。まず人が異常に多い。表通りも裏通りも、人で溢れかえっています。後で知ったのですが、この国は南北アメリカ大陸で屈指の人口密度が高い国なのだそうです。強烈に印象に残っているのは、全身に葉っぱを張り付けた「葉っぱの服」とでも呼べそうな格好をした男が路上でにゅっと現れた時です。経済的理由であれ、ファッションであれ、日本の常識で考えなければ、全身葉っぱのおじさんがいても別に構わないと今では気軽に思えます。世界中には日本の常識で測れないことにそれこそ山のように出合ったのですから。しかし、旅行経験も浅く、治安の悪い国に夜にひとりで外出するという、無謀な行動に出ていた当時の僕は、その「葉っぱおじさん」に驚愕。驚愕。言い知れぬ恐怖を感じて走ってその場を立ち去りました(笑)。

それでもまだあきらめきれず「早くププサを手に入れなければ」と焦って探してみると、実はあっちにもこっちにもププサを売る屋台があるわあるわ!さすが国民食と言われているだけのことはあります。ろくにどんな物かも確認せずに、テイクアウトで包んでもらってホテルまで走って帰りました。 早速食べて見ようと思い、紙袋から取り出したププサは、丸いトルティーヤの中に具が入ったおやきの様な食べ物でした。この時はやや興奮状態にあったのであまり味は覚えていません・・・(涙)。

 

で。帰国後に調べたププサの実態は、『①名前の由来は「プーッとふくれる物」という意味の現地語。②中の具は、インゲン豆のペーストとチーズ、チチャロンという豚の皮のお総菜。③辛いトマトソースと刻んだ酢漬けキャベツとともに食べる。』というものでした。そういえば、赤いソースが添付されていたのでそれをかけて手をベタベタにしながら苦労して食べた事を思い出しました。

 

 

※後記・・・原稿を書いた後、もう一度ちゃんと当時の日記を読み返すと、葉っぱおじさんは「全身に葉っぱを張り付けていた」ではなく「葉っぱ一枚を身にまとった」と書いてあるではありませんか。記憶よりもさらに過激な(?)格好だったようです。いずれにせよ、ププサの味以上に強烈な印象の、エルサルバドルの思い出でした。おそまつ。

エルサルバドルは、僕が訪ねた当時は「治安が悪化しているから外に出歩いてはいけない」と他の旅行者から言われていた国です。そのため、長距離バスですぐに隣国へ通過してしまおうと考えていました。(エルサルバドルは四国ほどの面積の小さな国です。)ただ、バスのタイムテーブルの関係でどうしても首都サン・サルバドルで1泊しなくてはいけなくなりました。夕方、バスターミナルに隣接するホテル(10$)にチェックインし、「出歩かなければ危険はないはずだ」と部屋にこもることにしました。今考えると、ちょっと怯えすぎな気もしますが・・・。とはいえ暇なので部屋でガイドブックを読んでいると、エルサルバドルには「ププサ」と呼ばれる国民的な名物料理がある事を知りました。

ププサ・・・。料理の味や姿を想像させることを拒絶するかのような、

実際にププサを買いに行ったときは、怖かったので、財布も持たずカメラも持って行ってないので、ププサを焼いているところは撮影できませんでした。これはネットで見つけたププサの調理風景です。

第35回「通り過ぎる国々」(エルサルバドル・ホンジュラス)

 エルサルバドルではバスの関係もあってとりあえず一泊して名物料理も食べましたが、特にどこかに行く予定のなかったホンジュラスは、出入国スタンプこそ押してもらったものの、ほんの3時間ほどであっさり通過して次のニカラグアに入国していました。つまりホンジュラスにはほぼ、何のイメージも思い出もありません。強いて言うなら、売店に肌色をした奇妙な炭酸飲料が売られていて、これは一体なんだろうと思って手に取ると「コーラシャンパン」というチープな名前が付いていました。肌色の飲み物です。一体何が悲しくて飲料にこんな色を着けてしまったんでしょうか。よく企画会議でボツにならなかったものです。とりあえず、ホンジュラスのオリジナル飲料のようなので一つ購入して飲んでみて、大いに後悔しました。このような飲み物の例にもれず、ただ刺すような甘さと炭酸の刺激のみ、でした。思い出すのも涙…のホンジュラス唯一の思い出でした。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

このように、別に悪気はないんだけど縁のなかった国というのがこの旅でいくつかありました。その代表格が音楽の都ウィーンのあるオーストリアです。早朝の靄でかすむウィーンの町に降り立って、左手にシュテファン寺院をぼんやり眺めながら15分ほど路面電車に乗っただけですぐ別の国に向かう長距離バスに乗ってしまったのですから・・・。だからオーストリアにはまったくといっていいほど何の印象もありません。税関が他の国より厳しかったことぐらいしか覚えてません。

その後、少し大人になったのか、クラシック音楽などを嗜むようになった現在の赤池、一番行きたいヨーロッパの国がそのオーストリアです(涙)。皮肉としか言いようがありませんが、当時は全く興味がなかったんですねぇ。

 さて、オーストリアの事はさておき、次からは中米編も後編へ突入。赤池の旅はいよいよ中米旅行のダークサイド(?)ニカラグアへと足を踏み入れます。数年前まで無政府状態だったと言われるニカラグアで一体どんな事が待っているのか。乞うご期待!

音楽が好きなのに、まさかのウィーン素通り…。天才モーツァルトもさぞかしご立腹されていることでしょう(笑)。

第36回 長旅コラム②「バックパッカーとインターネット」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

そして現在・・・。インターネットはおろか、長期旅行者でもスマートフォンを持ち歩いて、世界中のどこでもいつでも誰とでも繋がっていられる時代になってしまいました。もはや日本の街にいるのとなんら変わらない感覚で外国の街を歩くことができます。しかし、そもそも旅にその類の便利さなんて本当に重要なのでしょうか。簡単に誰とでも繋がれる現状を少し(というかかなり)淋しく思います。そして、エアメールしか通信手段がなかった時代を心から羨ましく思います。沢木耕太郎が書いたように、大使館留めで送ってもらった1葉のエアメールには、現在のEメールやフェイスブックのやりとりとは比べることの出来ないほどの重みや輝きがあったんじゃないでしょうか。

ちなみに、日本大使館留めで手紙を送ってもらうという古典的な通信スタイルに強い憧れを持った僕は、今回の旅行でもし何か送るものがあれば、とりあえず中米コスタリカの日本大使館まで送ってくれるようにと友人たちにお願いしていました。いわゆる「日本大使館留め」ごっこですね(笑)。コスタリカの日本大使館まで行きましたよ、もちろん。そのあたりの事は次回からの中米編後編で詳しく触れたいと思います。

 それでは次週以降をお楽しみに~。

1990年代、旅行者の通信手段は絵はがきやエアメールがほとんどでした。はがきに赤い文字で「BY AIR」と書いて投函しないと、その国の郵便局の片隅で眠ったままいつまで経っても日本に到着しない、なんていう笑い話もあったくらいです。手紙や荷物を受け取るときは、その国の日本大使館留めで送ってもらうと受け取れるのです。

沢木耕太郎の有名すぎる紀行書「深夜特急」にこんな話が出てきます。主人公は家族からの手紙をアフガニスタンの日本大使館に送ってもらう事にしていて、実際に首都のカブールでその手紙を受け取ったら、知人がテヘランを滞在している事を知ります。しかしその手紙を受け取った時点では、5日後にテヘランを発つことになっていて…。この箇所を読んだ時、外国の日本大使館で手紙を受け取るとはなんて刺激的な体験なんだろうと、羨望に近い感覚をおぼえた記憶があります。

僕が旅行をしていた2000年代は無料のEメールサービスが世界中で使えるようになって、手紙や絵はがきの重要性は薄れてきていましたが、それでも友人たちには事あるごとに絵はがきを送っていたように思います。Eメールは確かにどんな地球の果てでもネット環境のあるパソコンが1台あれば誰とでも通信できましたが、日本語入力できない事が多かったり、日本語が読み取れずに文字化けすることも多かったです。ですのでせっせとヘボン式のローマ字で送っていた記憶があります。読みづらいんです、これが。

 

 

 

言わずと知れたバックパッカーのバイブル。1巻と2巻の香港・マカオ編やマレー半島編が圧倒的に人気ですが、個人的にはネパールのカトマンズの事を書いた3巻の短い章が非常に印象に残っています。本文のアフガニスタンのくだりは4巻のシルクロード編に載っています。

中米編”後編”バックナンバー37話~50話

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